私のデザイン観(2)
私は差別が嫌いです。
特にデザインに関しては良いものは良いと言おう。
悪いものも悪いと言おう。
モノに関してはそれが作られた地域や作られた人によって差別を受けるべき
では無いと考えています。
例えば中国やベトナムでデザインされ、作られた商品にも優れたものは一杯
あるはずです。
彼らはどんなに良いモノを作っても「どうせどこかのモノマネでしょう?」と差
別を受けていると考えるべきです。
さて、世界の眼鏡市場に於いてデザインに関しては日本も後進国なのです。
差別とはどういうものかと言うと、言葉を変えれば「期待値」のようなもので
すね。
世界のバイヤーにとって私のデザインが日本に求める期待値でなかったとし
たら・・具体的には、良いデザインだけどこれは日本に求めて無いと言われた
りします。つまり、日本には普通のデザインのメガネを細部まで丁寧に作った
商品を期待されているのです。最先端のデザインは北欧から仕入れると言っ
た構図ですね。。悲しい現実でそれがデザイン差別です。
オリジナルデザインで良く考えられしっかり作られていたら、それが中国や
ベトナムや日本であっても正当に評価されなければなりません。
差別をすれば必ず差別を受けるようになるものです。
だから私も曇りない目でモノを見て、良いモノを良いと褒めるし、私が作っ
たものでも悪いものは悪いと言わなければならないと思うのです。
もう一つ、Y2の製作は小売店でも作れるようにしようと考えています。
これにはきっと抵抗勢力があると覚悟はしていますが、
私の信条として「作られたモノが作られた地域や作った人によって差別を受
けない」に照らし合わせるとY2はどこで作ってもY2ですし、誰が作ってもY2
なのです。私は器用な人なら誰でも作れるようにデザインしました。
但し、ワンオフ工房で作られるY2は別格となる可能性はあります。
これがいわゆるブランド化です。
ホンダのスーパーカブは全世界的にコピーされていますが、ホンダは別格
扱いですからねっ!
しかし、私はブランド化が目標ではありません。
その先を見つめています。その先と言うのは、今の眼鏡は多くのデザイ
ンの中からセレクトを求められていますが、一人一人に合わせてアレン
ジして作れることが普通になることです。
どんなマイノリティの人であっても眼鏡で「差別」を受けることがない。
その様になって欲しいと思っています。
特にデザインに関しては良いものは良いと言おう。
悪いものも悪いと言おう。
モノに関してはそれが作られた地域や作られた人によって差別を受けるべき
では無いと考えています。
例えば中国やベトナムでデザインされ、作られた商品にも優れたものは一杯
あるはずです。
彼らはどんなに良いモノを作っても「どうせどこかのモノマネでしょう?」と差
別を受けていると考えるべきです。
さて、世界の眼鏡市場に於いてデザインに関しては日本も後進国なのです。
差別とはどういうものかと言うと、言葉を変えれば「期待値」のようなもので
すね。
世界のバイヤーにとって私のデザインが日本に求める期待値でなかったとし
たら・・具体的には、良いデザインだけどこれは日本に求めて無いと言われた
りします。つまり、日本には普通のデザインのメガネを細部まで丁寧に作った
商品を期待されているのです。最先端のデザインは北欧から仕入れると言っ
た構図ですね。。悲しい現実でそれがデザイン差別です。
オリジナルデザインで良く考えられしっかり作られていたら、それが中国や
ベトナムや日本であっても正当に評価されなければなりません。
差別をすれば必ず差別を受けるようになるものです。
だから私も曇りない目でモノを見て、良いモノを良いと褒めるし、私が作っ
たものでも悪いものは悪いと言わなければならないと思うのです。
もう一つ、Y2の製作は小売店でも作れるようにしようと考えています。
これにはきっと抵抗勢力があると覚悟はしていますが、
私の信条として「作られたモノが作られた地域や作った人によって差別を受
けない」に照らし合わせるとY2はどこで作ってもY2ですし、誰が作ってもY2
なのです。私は器用な人なら誰でも作れるようにデザインしました。
但し、ワンオフ工房で作られるY2は別格となる可能性はあります。
これがいわゆるブランド化です。
ホンダのスーパーカブは全世界的にコピーされていますが、ホンダは別格
扱いですからねっ!
しかし、私はブランド化が目標ではありません。
その先を見つめています。その先と言うのは、今の眼鏡は多くのデザイ
ンの中からセレクトを求められていますが、一人一人に合わせてアレン
ジして作れることが普通になることです。
どんなマイノリティの人であっても眼鏡で「差別」を受けることがない。
その様になって欲しいと思っています。